町亞聖アナは結婚せず独身!過去の水着画像や母親や父親や兄弟は?

スポンサーリンク

 

今回は、ホリプロアナウンス室所属の町亞聖(まちあせい)アナウンサーについての情報をリサーチしていきます。

 

町亞聖アナウンサーは、元日本テレビアナウンサー。現在はフリーアナウンサーとして活動しています。

 

町亞聖プロフィール
出身地埼玉県さいたま市
生年月日1971年8月3日(52歳)
身長162cm
血液型O型
最終学歴立教大学文学部英米文学科卒業
所属事務所ホリプロ
職歴日本テレビアナウンサー→フリー
活動期間1995年~
ジャンル報道・情報
推定年収?
推定カップCカップ
趣味

読書:年間100冊以上読み、文庫本を1,000冊程度所有 宮部みゆき、重松 清、浅田次郎、三浦綾子など

観劇:歌舞伎や宝塚から、小劇場系まで

ゴルフ:スコア100前後

同期

魚住りえ(退社)

・矢島学

・近野宏明(同局記者)

資格

珠算2段、書道4段

出演番組(過去含む)

・文化放送『みんなにエール!』

・ラジオ日本『岩瀬恵子のスマートNEWS』木曜・金曜

・文化放送『大竹まこと ゴールデンラジオ!』水曜(13:00~15:30)

町亞聖アナは結婚せず独身!過去の水着画像や母親や父親や兄弟は?

町亞聖アナウンサーの経歴。

 

町亞聖アナウンサーの経歴は、出生地は埼玉県蕨市、出身はさいたま市、3兄妹の長女として生まれ、 さいたま市立浦和高等学校を経て、立教大学文学部英米文学科を卒業後、1995年4月にアナウンサーとして日本テレビに入社しています。

 

町亞聖アナは、ハーフのようなはっきりした顔立ちですが、父親が鹿児島県与論島出身で堀が深く、小さい頃からよく間違えられたといいます。亞聖という珍しい名前の由来は、聖人に次ぐ第2の君子を意味とし、妹は亞夢、弟は 宗法と父親が名付けたといいます。

 

子供の頃からアナウンサーに憧れ、高校時代には、チアリーダー部に所属。野球部が夏の甲子園に出場した際にテレビに映っています。

 

 

高校3年生の時に、母親の広美さん(ひろみ・当時40歳)が「くも膜下出血(頭の中の血管が切れる病気)」で倒れてしまい、その後遺症で右半身麻痺、認知症、言語障害(左脳で出血した為、言葉が流暢に話せない)から車椅子生活となり、普通の高校生が、いきなり介護、家事や弟妹の世話などを一身に背負うことになります。

 

 

高校卒業後は、介護、アルバイト、勉強と浪人生活を経て、大学に進学。奨学金で通っていたといいます。そんな介護生活の中で、「介護問題を伝える番組を作る仕事がしたい」と思いアナウンサーを志します。そのために彼女は、いつの日か介護の現実を伝える時のため母の介護をカメラに収め続けています。

 

 

 

大学時代には『ミス・ザ・テレビジョン』(1992)、『旭化成マスコットガール決勝大会』(1993)、『ニューカレドニア・イメージガール』(1994)などのミスコンにエントリーしています。

 


日本テレビに入社。アナウンサーをしながら母親の介護生活。

 

日本テレビ入社後は、『あさ天5』、『とんねるず生でダラダラいかせて!!』、『TheサンデーNEXT』、『いつみても波瀾万丈』などスポーツ、情報、バラエティー、報道番組などに幅広く出演していました。

 

元々は両親が共働きで家族5人生活するのがやっとの状況で、その母親が倒れたことで、弟と妹の学費、生活費、母の高額な医療費、入社2年目の時に購入した自宅マンションのローン費用を稼ぐのは町アナの役目だったと言います。

 

 

時間の不規則な女子アナという激務の中、家事全般をしながら母親の介護を続け、当時は睡眠時間3時間という過酷な日々を送っています。また、当時は介護保険とかもなく、全て家族でしなければならなかったといいます。町アナは当時を振り返り「お母さんが壊れていくっていうのは厳しい現実だった」と明かしています。

 

 

介護8年目、町アナが26歳の時に、医師から母が「子宮頸がんの末期で余命半年」と宣告されます。言葉が上手く話せなかった母は、自分の気持を周りに伝えられず、癌の判明が遅れ、気づいたら手術すら出来ない状態だったといいます。そして1999年11月に母親は永眠(享年49歳)。くも膜下出血に倒れてから10年、最愛の母が息を引き取っています。

 

 

また、妻を失った喪失感から今度は、父親の秀哲(ひでのり)さんが、ウェルニッケ・コルサコフ症候群(多重のアルコール摂取によるビタミンB1の欠乏で引き起こされる脳機能障害)を発症し、介護生活はその後も続いたといいます。

 

 

母の死から約5年後の2005年に父親も他界(享年57歳)。気が付けば町アナの介護生活は15年にも及んでいたといいます。

 

アナウンス部を異動。

 

入社5年目(当時29歳)には、報道局社会部に異動となり、記者、キャスターとして活動します。主に厚生労働省担当記者として、がん医療、薬害肝炎、医療事故、不妊治療、臓器移植、難病問題や年金などの社会保障問題など様々なテーマを取材しています。また、震災報道、事故事件の現場、裁判中継(オウム真理教麻原裁判)、皇室関連(愛子様誕生など)など数々の歴史的な出来事の取材に携わります。2006年9月6日放送の情報番組『スッキリ!!』内では、秋篠宮妃紀子さまの出産(悠仁親王誕生)のスクープを、他局に先駆け報じています。

 

しかし、本心はアナウンサーへの未練は断ち切れず、アナウンス部を異動してから10年間、毎年異動願いを提出していたと言います。38歳の時には番組スタッフに回され、裏方として弁当の注文や雑用など後輩アナのサポート業務をこなさなければいけないという耐え難い状況に。そんなストレスを抱える中で、人気のないところで泣く毎日を過ごし、休日は家から一歩も出られないという「うつ状態」になってしまったといいます。

 

40歳を前に「このままうつ状態で日本テレビで仕事を続けていくのか?」「日本テレビを辞めてフリーになるか?」と自分の将来について不安を抱いていましたが、既にアナウンサーを離れて10年間経過しており、現役に戻るには自信がなかったといいます。

 

そんな状況の中、アナウンス部から異動する際に最後番組で共演していたタレント・峰竜太の「町さんなら大丈夫だよ」という言葉を思い出し、16年勤務した日本テレビを退社する決意をしています。(峰竜太は、介護生活を送っていたのを知る数少ない芸能人の1人で、埼玉県の外れで行なわれた母の葬儀に芸能人で唯一参列。町のことを常に気にかけてくれていたといいます)

 

フリーアナウンサーとしての活動。

 

町アナは「自分で取材し自分で作って自分の声で伝える」アンカーマンを目指し、活動の場を広げるためフリー転身を決意。2011年5月31日付で日本テレビを退社しています。

 

翌6月1日からホリプロ所属となり、同年6月11日に日比谷野外音楽堂で行われたパープルリボンウォークの総合司会にてフリーアナウンサーとして活動を開始しています。

 

同年10月26日には、一家を支えながらの10年間にも及ぶ母の介護生活を綴った著書『十八歳からの十年介護』を出版しています。

 

また、文化放送『大竹まこと ゴールデンラジオ』に出演した際には、当時の壮絶な生活を振り返り「空が青いと涙が出ていた」とあまりにも精神的に辛かった事を明かしています。そして、これらの経験から医療と介護を生涯のテーマに取材を続けています。

 

フリー転身後のレギュラー番組は、テレビ朝日『ワイド!スクランブル』の木曜コメンテーターを1年間。TOKYO MXの『5時に夢中!サタデー』、『ニッポン・ダンディ』、『5時に夢中!』、『週末めとろポリシャン♪』などの番組に出演しています。

 

2018年4月7日からは、文化放送『みんなにエール!』、2020年3月19日からは、ラジオ日本『岩瀬恵子のスマートNEWS』木曜・金曜に出演しています。

 

町亞聖アナウンサーの結婚や兄弟達は?

 

町亞聖アナウンサーは、現在もひとり暮らしで独身だといいます。

 

3歳下の弟の町宗法(まちそうほう)さんは、家計を考え、大学進学を諦め、誰にも相談せずに消防士になったといいます。

 

6歳下の妹の町亞夢(まちあむ)さんは、町アナの献身的な支えと経済的支援により、普通のOLとして就職。高校の同級生の男性と結婚し、今では二児の母親になっています。

 

町亞聖アナウンサーまとめ。

・元・日本テレビアナウンサー。

・私生活では、15年間、母親、父親の介護生活と仕事の日々を送っていた。

・フリーアナウンサーとして活動。

今後も町亞聖アナウンサーの活躍に注目です。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

公式ブログ

『町亞聖オフィシャルブログ「As I am」』

関連記事
【日本テレビ】女性アナウンサー・キャスター・リポーター名鑑【一覧】
日本テレビ放送網株式会社(にっぽんテレビほうそうもう、英称:Nippon Television Network Corporation)は、関東広域圏を放送対象地域としてテレビジョン放送を行う特定地上基幹放送事業者です。一般的には日...
女性フリーアナウンサー・キャスター名鑑【一覧】
フリーランスとして活動している女性アナウンサー、キャスター名鑑です。 セント・フォースや三桂などのアナウンサーに特化した事務所に所属する場合が多いですが、最近では、ホリプロなどの大手芸能プロダクションに所属する場合も多いです。...

  1. 介護も難関がありました。亡き両親もいつまでも冥福をお祈りいたします。

テキストのコピーはできません。